高等遊民前夜

日記と考え事・雑感のログ

とどのつまり肉

 金曜日。変な天気だ。雲がすぐ上空まで迫ってくるのに建物には陽が照っている。今年の晩秋は暖かかったけれど今日からは一段と寒くなるらしい。

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 私は最近ダイエットを心がけており、糖質や炭水化物の量を減らし、タンパク質や野菜メインの食生活を心がけて自炊している。忙しさにやられると出来合いに頼ることが多いけれど、それでは塩分過多になりがちだからいただけない。(惣菜には助けていただいているが。)
 ところが、私自身のダイエットのためのヘルシー食生活なのに、私はぜんぜん痩せず、同じ食事を摂っている同居人の方がスルスルと痩せてしまった。もともと痩せ型なのにどんどん痩せる。極めつけは、職場の健康診断で「無理なダイエットは控えてください」と注意されたというから驚きだ。(私は職場で注意されたりしない。)ほぼ同じ食生活をしているから余計に生まれ持った体質の違いを思い知らされる。同居人に至っては、毎晩夕ご飯後にチョコモナカジャンボとか食べているのに全然太らない。羨ましすぎる。そして自分の体質が憎らしい。

 精神や内面としての在り方が大事だとかつての私は考えていたけれど、結局は物体、つまり肉体としての自分の在り方も自分自身なのだと強く感じることがある。見た目なんて関係ない、どんな服を着ていたって真実の自分は中身だというのは嘘で、私は痩せにくい体質に悩んでいるし、着膨れする骨格に辟易とする。嫌われない程度のうつくしい容姿を持っていたらよかったと思うことがある。内面としての自分がどうであろうとこの肉体から離れて生きることはできないわけで、物体としての私も残念ながら私なのだ。外見は大切なのだ。でも物体としての私は、自分の力で変えることができる部分と、変えることが難しい生まれついた部分がある。その事実がとてもしんどくて、人は「中身が大事」と言うんだと思う。それが当然の事実なら言う必要がないのに。

 なんでそこまでダイエットしたいのか、と同居人によく聞かれる。痩せても太ってもいなく、BMIも正常で、健康でいいじゃない、と言われる。着たい服が物理的に着られないわけでもない。職場で体型を弄られたわけでもない。誰かに痩せろと言われたわけじゃない。たぶん、誰かに認められたいわけではなく、内面としての私がいまの私の体を後ろめたく思い、許しがたいのだ。自己実現的な意味で、自分のために痩せたいのだと思う。どこまでも面倒な人間だなと思う。

 昔はちょっと無理なダイエットをすればすぐ減量できたが(※真似してはいけない)、今は健康的な食事をするくらいでは簡単に減量できなくなってしまった。歳を重ねるとほんとうに代謝が悪くなるんだな。かつてはただの知識だったものが一つずつ自分の体験に変わっていく。もっと運動するための時間を作れたらいいんだけれど、そういう意味では社会人はつらい。ジム通いでもするべきなんだろうか。

 仕事が終わって、同居人に退勤連絡をして「トリキ行きたい」と送った。この「トリキ行きたい」に深い意味がなく、普段から息を吐くように言っている私の口癖のようなものだが、同居人もちょうど帰路に着いたところだったらしく「じゃあ行く?」と返信が来た。推しとフライデーナイトにトリキ行けていいんですか? 自宅から最寄りのトリキに集合して互いに好きなものを食べた。私は例のごとくダイエット思考なので、鶏肉や野菜メインで食べた。鶏肉はタンパク質の塊だから適切に食べれば太らないと信じている。

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 たらふく肉を食べた後、早めにバスを降り、運動がてら自宅まで歩く。道すがら、「七五書店」という書店がある。先日、この書店が店じまいをするという悲しい報せがあった。昔ながらの町の本屋さんで、こだわりの選書が好きでよく通っている。特に詩歌の選書に力が入っていて個人的に好みだ。こんな素敵な書店も時代の流れには敵わないのか、と悲しくなる。

 本やCDがだんだん、道すがら買うものから、「買いに行くもの」に変わっているよなと思う。地元で、高校時代の下校時によく通った町の本屋もCDショップもう無くなってしまった。生活の中でふらっと立ち寄って、最近の新刊を眺めたり、興味本位で買ったりすることがなくなった。私にとっての町の本屋はそういう生活に組み込まれた存在だった。これから本を書店で買うとなると、電車で移動して買いに行くか、ネットで買うしかなくなる。
 私は本や音楽をフィジカルで購入することに拘っているから、なんとか時代に抗って店頭で買うようにしているけど、ネットに頼らざるを得ないことも増えた。ただの転換点といえばそれまでだけど寂しい気分だ。