土曜日。出勤の夫に合わせて朝早く起きた。朝が早いと一日が長く感じられるから嬉しい。
Twitterもブログもフォローしている途中さん(id: madatotyu)が作られた同人誌を読む。本当は週の途中で届いてたけれど、片手間に読みたくなくて週末まで待っていたものだ。
途中さんは普段Twitterや文章を読んでいて、職業も似ているし、年齢が近いと確信があって、勝手に親近感を持っていた。精力的に本も出していて、私と違って行動力のあるところがすごいなと思っている(口ばっかりの私としては本当にそう思うのだ)。今回は通販があったから地方民の私も購入することができた。ありがたい。
自由研究っていうタイトルがいいなと思う。自由研究って、本当に私たちはいつでも自由に研究できるはずなのに、この単語を聴いたとたんに夏休みの課題のような息苦しさがある。自由に何をやってもいいという苦痛を、途中さんはあえて大人になった今やってみるのだなあと感じる。
表紙に「子のいる人生 子のいない人生」とあるように、この国で非常にメジャーな人生の選択のひとつである、子を持ち母になるかどうかという選択を前にした苦悩や思考のあり方がそのまま包み隠さず記されている。自己の内面を整理するだけじゃなくて、他者の著作を参考にしてみたり、まつわる制度を調べたりして、冷静に苦悩や逡巡を紐解こうとする様子にとても好感が持てた。(引用されている本が自分がすでに読んだ本ばかりだったのも、同じ悩みを持つ者としてすごく縁を感じた。)
私はこの本を自分の話であるかのように読んだ。自分と同い年で、同じく既婚で、子をもうけていない者の一人としてとても共感できた。そして私も、無条件に好きな人と結婚したら子を持とうなんて地続きに考えられない側の人間だ。私が健康的な生殖能力を有しているかの問題を度外視すれば、つまり自分が産めない場合を除けば、私には子を産む/産まないという選択ができる。でも子は産まれてしまったらそれをリセットできない。どんどん貧しくなっていくこの国で、これからたくさんの苦痛を背負うかもしれない別人格の人間を産んでいいのか、と思う。そんな取り返しのつかない別の命、別の人格を生み出すことへの根源的な恐れがずっとある。
私の場合は、そこへ子を産んだあとの自分の労働への心配や母親への風当たりなどといった社会的問題が絡んでこの選択をより難しくさせているが、先に上げた根源的な恐怖に比べたら社会的な問題は小さい。産みの身体的苦痛もそんなに問題ではない。自分が耐えればなんとかなるものは割とどうでもよかった。自分が産み落としたことで否応なしにスタートしてしまう人生があることのほうが恐ろしい。子は勝手に育つかも知らないが、この時代に産み落としてきっとたくさんの苦しみが待っているだろうに、父と母の都合だけで産み落としてしまうことが恐ろしい。きっとそれは、私自身が辛いことばかりの人生だったからかもしれない。
多分考えすぎと言われるし、自分が考えすぎているだろうことはよく分かる。でも私は逆に、何も考えずに子を産める人の気持ちが残念ながら分からない。これはそういう人を批判しているわけではなくて、ただ単に自分が否応なしに考えてしまう側の人というだけだ。考えてしまうのだ。だから考えない人間に生まれられたらよかったのにと思う。世の中考えすぎるとうまくいかないことばかりだ。
多分私は、いざ不意に妊娠したり、何かの拍子に他者の赤子を育てざるを得なくなったとして、問題なく子育て出来ると思う。実際そうやって日々を過ごしているし、理不尽とも思える現実にも耐えつつ生きている。自分自身の意思の有無に関わらず母になれたのなら、私は困惑しつつも現実を受け入れ母になるのだと思う。選択する責任のプロセスだけ飛ばせたりしないのだろうか。別人格を持つ命を有無ために決断しなければならない責任とそこに生じる責任の重さよ。
途中さんの本も、締めとしては明確な答えを提示するわけでなく、開かれた形で終わっていくのだけど、私も自分の中の気持ちを見つめ直すいい機会になった。最後にこの同人誌のウェブショップを紹介しておこうと思ったけれど、今見たらすでに品切れになっていた。でも、今後また販売されるかもしれないし、この本以外の何かが販売されるかもしれないから、紹介しておく。