月曜日。生きております。1年ぶりくらいに理由のない有給休暇をとった。通院とか特定の用事がない、ただ休むことが目的の有給なんてとる暇もない(取れるけど仕事が積むだけの)状態だったから、最高にうれしい。うれしいついでに最近ずっと書けていなかったはてブも書けてしまうほどうれしい。
嬉しくて雨なのに朝から散歩していたら野生の水仙がたくさん咲いていた。最近は帰宅が遅く、この道を明るいうちに通ることが無くなっていたから気が付かなかった。忙殺されると季節感が消失してよくない。
あ…ありのまま私にこれまで起こった事を話すぜ!
(長文ブラック業務奮闘記を読みたい人だけ読んでください。)
2月前半に、半年ほど悩まされ続けた業務がようやく手を離れるまでのはなしです。先日のエントリでもちょっと触れたとおり、いまの部署に異動して以来、訳のわからん業務に対応しているのは通常運転ですので置いといて、9月頃に厄介な仕事を押し付けられて苦しんでいた。
その仕事は、端的にいうと国外各種関係先と共催でのイベント開催(全部英語)みたいなのもの。文章では一行で終わるが、イベントの中身や方向性やゲスト選定、日程調整、予算の獲得といった大枠から、チラシ等の印刷物作成や実際の旅行手配や食事手配などの細部に至るまですべて対応しなければいけないというやりがいのある面倒なプロジェクト的業務だった。 (しかも細部が面倒なのだ、でも神は細部に宿るから…)
そもそも全部英語はハードル高い。無理。国際的な催しとかやったことない。なんか、ゲストの食事の配慮気をつけなきゃとか、ビザ問題とか大変なんでしょ?くらいの認識。部署にもノウハウの蓄積はなく初の試みだから気合いが入っているらしい。正真正銘の更地スタートだ。
本来であれば少なくとも1年以上前から準備すべきボリュームでは?と思われたが、このプロジェクトの責任者が、この件を引き受けて以来何も進めておらず放置していたと判明したのが8月末だった。イベントは2月前半予定。もう半年しか時間がないのに、正式日程決めも会場確保もしていないという惨事。さすがに共催相手のいるイベントをこちらの不手際で流すわけにもいかないらしかった。そしてお察しの通り、この炎上案件に生け贄として投入されたのが私だった。気合い入ってるイベントなのに私なぞに押し付ける矛盾よ。
(そもそも、なぜ仕事をしない人に責任者を命じるのかという超特大ミステリーがあるが、その人に仕事を与えないのが却ってマズいから役割を与えたらしい。財閥のご令嬢か皇族関係者の出自なのかと疑うぐらい偉い人がみな気を遣っている。そしてこの組織的都合の割を喰ったのが私である。)
思い出すと震え上がるほど腹が立つが、今だからはっきり分かるのは、異動したての私が瞬時に正常な判断ができないのをいいことに、この炎上案件を押し付けられたこと。退路を封じられ、さも私の前任者もこの案件に携わっていたかのような最もらしいことを言われ、これは私のポストが行うべき仕事なのだと説かれて丸め込まれたのだ。密室で、上の立場の人々に説き伏され、ただ一人いちばん立場の低い私に断る術はなかった。抗ったがダメだった。それは私の存在がひどく軽んじられているという事だったと思う。
たぶん、実力主義の一般企業で働いている人にとっては、こういうプロジェクト系って寧ろやりたい、成功させて自らの業績にしたいものだろうから、嫌がるのを不思議に思う人も多いと思う。私の職場は公的機関の評価体系で、いわゆる年功序列だ。大変な難しい仕事をやったところで評価もされなければ給与にもほとんど反映されない。その反面クビになりにくく雇用が安定している利点はあるが、大変な仕事をやったことによるインセンティブがないので、ほどほどに仕事をしないで働くことがもっとも高コスパになり、仕事の押し付け合いが発生するのだ。
だから「事務職は楽」という世間的イメージに惹かれている未来あるみなさんにはどうか軽い気持ちで就職しない方がいいよと強く言い続けたい。仕事の大変さや指標はいろいろあるが、この職業はこの職業なりの地獄があるから覚悟の上で来ておくれ、と思う。毎日文字通り奔走して、ほぼ座席にいないのに事務職と言っていいのかさえ分からないような仕事だ。最早、事務ってなんだろうか。
ともあれ、少なくとも私一人で抱えるべき案件ではないのは明白だった。他の案件抱えながら独力でこなすのは無理ゲー極まりなかった。チームでやるタイプの業務量だ。聞いていた話と違う、これはおかしいと確信した時にはすでに遅く、私が責任者であるかのような認識が共有され、皆がみな私の指示を乞うようになっていた。
騙されたと思った。私に仕事を押し付けた私の2倍年収もらっている人びとは定時に帰り、私は終電間際まで準備に追われ、休日も返上して仕事をする日々が始まった。今回ばかりは何度も、辞めたい、全てをかなぐり捨てて逃げてしまいたいと衝動的に思ったけれど、私に指示を乞う別部署の人たちもまた、担当業務でもないのに訳もわからず巻き込まれた立場の弱い人たちだった。私が若手であることを呪った。ぶっちゃけこれが若者が辞める理由のすべてでは?と思う。若い人に仕事押し付けた方が残業代の単価も少ないし、役職付きの皆さんは早々に帰れてハッピーなんだろうか。なぜ全ての割を喰うのが若い人々なのか悔しかった。私は私同様に巻き込まれたその人たちのことを見捨てられなくて、仕事を押し付けた奴らのためではなくその人たちがこれ以上憂き目に遭わないように頑張ることにした。
そんなこんなで、通常業務に加え、手付かずのプロジェクトを2月の前半までにあつらえて終わらせないといけないという過度なストレスが加わった。四方八方から意思決定を求められる毎日はうまく言葉に言い表せられないが端的に言えばやはり地獄と言うしかなかった。動く金も人も多いだけに責任が重すぎる。やることも多すぎる。自分が5人くらい居ないと足りない。こういうのって、役職も何もない一兵卒にやらせるんですかね?と、たまには私がこの職場で一番不幸であるかのような憐憫に浸った。一方でこの半年間に近隣部署の5、6人(私が把握している範囲)がメンタル疾患で休職していたから、この職場にはきっとそれぞれ違う景色の地獄があったんだろうなって思う。私の憂き目もまたここではよくある話の一つでしかない。まあ私は、肩と背中の筋肉がおしまいになって整形外科に行ったら石灰の塊ができていたくらいだ。あとちょっと血尿も出た。私の絶望はまだ可愛いものなんだろう。
職場への諦念もより深く強固になったのと同時に、ちょっと人間不信も加速した。私に面倒ごとを押し付けた人たちが「いい働き方とは自分で決めるもの」「仕事が全てじゃないんだから残業もほどほどにしないと」等と私に説教をしてくださることもあり、どの口が??と心底怒りに震えることも多々ありました。あなたのワークライフバランスは、立場の弱いものたちの犠牲の上に成り立っていますよ、という言葉を何度も何度も飲み込んだ。上長が「うまく働くコツは仕事をしないこと」と新人に言った時は、自分が持っていた箸が凶器のように思えた。もうすべて嫌だ。
私が炎上案件対応するために、私が持っている仕事のうち簡単なものを手が空いている非常勤さんに割り振ろうとしたところ、「やってもいいが自分で判断することはしたくない。すべて指示してほしいし、すべて逐一確認してほしい」と言われ、課を巻き込んでちょっとした揉め事になったこともあった。自分で調べたり判断したくないからメールの返信文面さえもチェックして欲しいそうだ。今どきそんな働き方ができるパートなんてあるのだろうか、と思いつつ、すべてに指示出し・チェックをするのは逆に手間なので、結局その非常勤さんに仕事を振るのはやめた。そんなこんなでこの半年間完全にオーバーワークだった。働くってなんだろうか。我を主張するものが勝つのか。
そんなことを考えながら、ボロボロになりつつなんとか2月に炎上案件を終えることができた。直前までいろんなトラブルがあって疲れた。おかげで、世の中にあるあらゆるイベントのチラシを見るたびに、裏にある責任者の気苦労に思いを馳せるようになった。
私に仕事を押し付けた奴らのことは人生を賭けて呪っていこうと思うけれど、親切な人もたくさんいて、特に私同様に訳もわからないまま巻き込まれた皆さんは真面目に対応してくれた。私のような若輩者が責任者代理ですまんな…の気持ちしかなかった。この人たちの名前は一生忘れないと思う。案件とともに炎上している奴(私)に近づいてくれているだけでもいい人たちだったと思う。この御恩はいつか必ず…。国外の関係先や業者も、私が本来の責任者ではなく、押し付けられてやっている事を半ば察してくれている人もいてちょっと救われた。結局、イベントでは本来の責任者が「私が準備しましたけど?」みたいな顔で仕切っていたが。私の人生マジで報われないなと思う。
この記事をかいていたらいろんな嫌なことを思い出して身体が熱くなり変な汗が出てきたけれど、本当に生きて2月を迎えられてよかったなと思う。休日返上で仕事しがちな私に、夫が無理矢理にでも映画とか買い物とかに連れ出してくれたのにも救われていたなと思う。(家事も最近は夫が担ってくれている。申し訳ない。)私が押し付けられた仕事の割を喰うのが無関係なはずの夫で申し訳ない。
戦いが終わったあとには戦後処理が必要なのが世の常で、私も案件が終わったことに伴う業務やその他の遅れている業務の対応が必要なので、たぶん3月いっぱいくらいまでには激務が続くんだろうけど、まあ死なない程度にがんばりたいとは思う。これでも私は明日普通に出勤するんだろうな。生まれ変わるなら地主か資産家になりたい。
(私に代わって家事をせざるを得なくなっている夫。申し訳ない。)