月曜日。祝日の間、GWの台風の眼、私は残念ながら出勤です。そういう日に限って天気がピーカンなのはもはや世の常だ。朝からいい日差しが部屋に入ってきております。植物が喜ぶからいいんですが。自分が社畜している間にみんなが行楽しているかと思うとしょっとイライラしているだけです。
昨日突貫で組み立てたIKEAのラックもいい感じに盛り上がってきました。いつまでも室外機の上に植物並べるわけにもいかないので。棚に置いたまま雑に水やりできるし、風通しも抜群になったと思う。また植物買い足しても置けるスペースが生まれたし、また散財しなきゃな〜と考えちゃう。こうやって人間は無様にも深みに嵌っていくのだなと思う。植物は一部の高額品種を除けば値段なんて大したことはなくて誰でも参入できるけど、お金かけようと思えばどこまでもかけられるから怖い。小金持ちには持ってこいだ。
私は最近のブログを読んで一目瞭然なとおり、植物が好きなんだけど、自分が育った家庭がそうかと聞かれれば全くそうではない。実家は田舎だからそこそこ広い庭があるが土が剥き出しの何もないただの敷地で、そこで何かを育てるということはなかった。父も母もわざわざ土をいじって何かを育てたいという欲求自体がないようだし、そもそも田舎に住んでいるのだからその辺にある植物をわざわざ自宅で育てる意味がわからないとさえ言っていた。花を買って花瓶に挿すことさえない。
私はというと、幼い頃から植物は好きで、雑貨屋さんの店頭で売っている小さなサボテンを見て欲しがっては、母親に「どうせ枯らす」と切り捨てられていた。私のどのような行動からどのように判断して「どうせ」というのだろうと幼ながらに不服に感じていた。母親にとっては私にあきらめさせるための体のいい言葉だったのだろうが、私にとっては呪いだった。新しい何かに興味を持つたびに「どうせ」と言われ、どうせの後ろには否定的な言葉がくっついてきた。
それを思えば、いま私がこれだけ嵌っているのは、当時から持ち続けていた欲求が増幅されて爆発した結果とも言える。もはや私を止める人などいないのだ。そして私は社畜、いまや誰もがひれ伏す残業成金だ。植物を数十種類抱えることなど造作もないのだ。おまけに同居人もどうやら植物のお世話が好きなようで、私と一緒に沼に飛び込んできている。おまけに、つい数ヶ月前までは「家を買うならマンションか戸建てか悩むよね〜」と言っていたのに、気がついたら庭付き戸建て一択と言い始めた(庭に植物を地植えできるから)。同居人は愛すべきミーハーだから、ハマるようにお膳立てすると大抵のことは素直にハマる。キリスト教宣教師全盛期時代だったら間違いなく洗礼受けてたんだろうな。
出勤時。地下鉄がやけに空いている。バスにも電車にも座れた。今日が休みで、悲しむ人が少ないのはいいことだと思う。みんなが休めが誰かが仕事をする必要もないのにね。祝日はかき入れどきだから休めない人もいて、休めない人がいるとその仕事に付随する仕事が生まれちゃうもんな。私はそういうのとは全く関係なしに、普通に残務が終わらないから出勤。自分の仕事だけやるつもりだったのに、普通に外からの来訪者が多くて激おこだった。GWくらいみんな休みなさいよ。こんなところに来て真剣な手続きをするんじゃないよ。そうは言っても拒めないんで、粛々と処理する。思ったより仕事が終わらず23時過ぎまで仕事していた。明後日からは大阪行きだからなるべく片付けていきたいが、果たして。職場で「人間らしい暮らしがしたい」って言ったら「それは無理だよ、社畜は人じゃないから」と言われて悲しくなった。