昭和の日。昭和の「昭」の字って、この元号が登場するまでは日本では全く知られてない漢字だったそう。「昭和」という元号が発表されて見慣れない字が広まり、名前に使う漢字として浸透した。名前に「昭」が入っている人を見るとそのことを思い出す。
ともあれ祝日です。この日を待っていた。ウィークデーの途中に休みがあるって精神衛生上とてもよいと思う。明日は明日で出勤だるすぎますが。8時ごろ起床。休みにしては早起きで上出来。早起きと上出来で韻が踏めるね。
入浴中はくるりの新譜『天才の愛』を聴く。ジャケットが坂口恭平さんのパステル画の時点ですでに最高。パステルなのに本当に光っているみたいだ。今回のくるりも自由でとても良い。くるりと童謡っぽい曲調との親和性はすごいなあと思ったりした。
その後、同居人も朝風呂をキメて、すっきりしたところでコーヒータイム。休みの日は時間に急かされずにゆっくり飲めてとても良い。時間的な制約のない生活をしてみたいよな。そもそも人生自体が時間的制約のあるものだから、時間的制約とはそもそも何だろうかと思うけれども。「何時までに〇〇しなきゃ」が限りなく少ない暮らしをしてみたいのだよなあ。仕事以外のものに没頭をしたいこの頃。近ごろ「没頭」という現象自体が私に起こっていないことがとても悲しい。
読書家の友人が、「本を読むより映像に依存するようになってきた。映像は勝手に流れていてくれるから」と言っていた。読書は体力も気力も使う。読書をしようと思い立ち、本を開く。自分で読む行為に向かわないといけない。たいていの本は短時間では読み終わらないから、どこか都合のいいところで読むのを中断し、栞を挟む。そうすると続きをどこかで読むために時間を作らないといけない。それに比べ、映像作品はひとたび電源を入れれば終わりまで流れていてくれる。映画でも2時間前後で終わる。友人の気持ちがとてもよくわかる。
別の友達は「疲れている時に疲れるシリアスな作品を受け付けない。分かりやすくてハッピーエンドが約束されている安直なラブコメの存在意義が分かった」とも言っていた。これもわかる。分かりやすい王道の物語はストレスフリーで文化的なものに触れられるという利点がある。私も残業帰りでくたくたな日々においてDEATH NOTEとかを読めないだろうし(セリフが多すぎて)。最近は一話数分で読み終わるショートショートが売れているとも聞く。社会全体が忙しすぎて何かを鑑賞する時間がないのだろうなと思う。私は本や映画に没頭したい。
昼。念願のハサミポーセリンが届いた。波佐見焼。マグカップと受け皿(になりそうなプレート)を買った。焼物は持ったときの重みが違って、ああ焼物なんだなと思う。普段ニトリやIKEAの食器を使っているからなおさら重く感じる。(ニトリやIKEAがなかったらこれまでの私の生活はままならなかった。)大事に使おうと思う。
午後。宅配便で念願のハサミポーセリンが届いた。波佐見焼のマグカップ。同居人と色違いで揃えた。大事に使う。焼物は持つとずっしりと重くて、指でたたくと乾いた音がする。普段IKEAやニトリの皿を愛用しているから余計にそう思う。(とはいえ私はIKEAとニトリなしにはままならない生活を送っているから感謝している。)自分が気に入るいいお皿を集めていきたいお年頃です。
その後、暇を持て余して、先週おつとめ品で買った豚肩ロースでチャーシューを試作する。鉄フライパンで表面に焼き目をつけて肉汁を閉じ込め、タレで煮込んで粗熱を取る。フライパンで焼いた段階では肉が硬くて「大丈夫か?」と思ったけれど、煮込んだらとても柔らかくなった。おいしい。冷蔵庫にこれが眠っていたらどんなにか幸せだろうと思う。ジップロックに詰めて冷凍保存した。いつれもこれを食べられる。
食べ終えると同居人はモンハンタイム。私は読書。通勤時に少しずつ読んでいたオードリー若林の『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』を読み切った。旅行記というかエッセイなんだけれど、面白かった。徹頭徹尾ナイーブでひねくれていて、それでいて傷つくことには臆病で、なんでもうがった見方をするというか、自分に近しい思考を読むとするする入ってきて落ち着く。自分も影日向で生きていたというか、青春のせの字もないくらいにきらめきのない残念な学生時代で、趣味という自分の世界に全力で逃げていたから、そういう闇みたいなものを包み隠さずに生きられるっていいなと心底思った。通勤時間がそんなに長くないから、エッセイは生き帰りで読みやすくっていい。DJ松永の解説がずるいくらい良かった。
夜ご飯。粗末ななにかを食べた。11時半に就寝。