高等遊民前夜

日記と考え事・雑感のログ

コンクリートと想像力:「進撃の巨人」の話

 「進撃の巨人」を大人買いしまして、この前の月曜(祝)からちまちま読んでいた。レンタルで読んでいたけど、まとめ読みしたかったから大人買い。後悔はない。

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 多分知らない人はいないと思うけど、念のため説明すると、「進撃の巨人」は、巨大な三重の壁で囲まれた地域に棲むエルディア人と呼ばれる人類と、壁の外にいる人類を喰らう巨人たちとの戦いの物語。ある日、絶対に壊されることがないと思われていた50メートルの壁を、さらに大きい60メートル級の巨人が現れ、壁に穴が空いたことでエルディア人が棲むエリアに巨人が入り込み、物語は動いていく。これまで巨人は大きくても15メートル前後とされていて、壁が壊されることはないと思われていたのだ。また、壁の外には人類はいないとされており、壁の中の人類が最後の人類とされている(けれど、物語の途中でそれは事実と異なることがわかる)。
 壁の中の文明はと言うと、中世ヨーロッパみたいな感じで、移動時は馬頼り、電気も通っていないと見られ、建造物も石造り煉瓦造り、木造。多くの読者が、コンクリートのようなもので作られた巨大な壁をどうやって作ったのかという疑問にたどり着くと思う。リアルタイムで読んでいた時に私が予想していたのは、「人間が巨人を使って作らせた」か「壁の中に巨人が入っている」のどちらかだったのだけど、正解は後者だった。壁の中には60メートル級の巨人が詰まっていて、巨人の硬化の能力を使って作られていたことが判明する。

 ふと、コンクリートの中に人が入っているかもしれないという想像力ってどこから来るのだろうなと考える。大学院の時もそういう講義があって、どうやら文学作品においてはセメントが発明された当初からそのような想像力は存在したようだ。海外の文学作品には、セメントやモルタル製の壁の中に死体が入っているかもしれない、という想像がミステリー作品の中で登場する。
 コンクリート(セメントやモルタルも含める。)の特異な点は、他の建築の材料に比べて、誰もが簡単に扱うことができ、中に何を入れてもわからず、さらに簡単には壊せない丈夫な素材であることだと思う。そのあたりを建築家の隈研吾が「自然な建築」という本の中で、通常建築をする上では、緻密な計算をして、基礎や柱などの骨組みを作って、という段取りが必要であるが、コンクリートの場合はそういった面倒な計算の大部分を省略して、コンクリートの塊で壁も床も天井も作ってしまえることに言及している。コンクリートはとても便利な素材で、それゆえに安易に使われている。困ったらコンクリートで家を建て、表面に壁紙などの「お化粧」をして完成させる。それを嘆いて隈研吾はコンクリートを避ける建築物へ向かうわけだけれど、それは置いといて、とにかくコンクリートは近代において急速に広まったとても便利で、便利すぎる素材だったと言うのは面白かった。そんな得体のしれない新しい素材は、中に何が入っているかわからず、死体が入っているかもしれない、という想像へと飛躍するのはそんなに突飛なことでもないんだろうなと思った。

 そもそも日本には古くに「人柱」という文化があって、南方熊楠とか高木敏雄あたりの本を読むと詳しいけれど、橋や城などの大規模建造物を災害に負けない丈夫なものにするため、または建造物が上手く建たない場合に災いを鎮めるために人が埋められたりしたことがあるから、建物の中に何かが入っているという想像力自体はむかしからあるもので、もしかすると日本だけのものじゃないかもしれないなと考えたりした。何が言いたいかというと、進撃の巨人は面白かったです。あれだけ手広く物語を広げて、伏線を回収しきって終わるってすごいなと思いました。

 今日は仕事で遅くまで残業し、きたくは22時過ぎでした。同居人が夜食を作ってくれた。いい光景。1時過ぎに就寝。

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隈研吾の本、面白かった。建築家って哲学者だなと思いました。)