高等遊民前夜

日記と考え事・雑感のログ

中庸

 金曜日。今月二度目の連休一日目。こうも連休が続くとだんだん働くことから遠ざかり、本当に働けなくなってしまいそうで怖い。連休明けの労働の反動といったら言葉では言い表しがたい苦痛をともなう。私の好きなバンドのスピッツは、普通の社会人のように年がら年中何かしら働いているらしいけれど、その理由が「休んでしまうと戻って来られなくなるから」だった。それに私は心底共感している。年末年始や盆休みの連休が祝日の並びによって想定外に長くなったりすると、私は長い休みをもらえる喜びよりも、休み明けのことを考えて不安になる。社会復帰できなくなったらどうしようか。そんな不安とともにずっと生きている。

 最近、無職やいわゆる社不(社会不適合者のことだ)をポジティブにとらえて、その自由さや放埒さを一つの魅力としてエンパワーメントするというか、全面に押し出す振る舞いがSNSの一部でよく見られるような気がする。無職の日々を逆に肯定的に発信する人も増えた。私もそんな生き方に魅力を感じることはあるし、浮草のように生きてみたいと思ったりもする。無邪気にだだっ広い余白のような時間を味わってみたい。時間が有り余って、何をしようかと考えることが苦痛になるほどの余暇を体験してみたい。
 実際に私がツイッターでフォローしている人の中には、さまざまな理由により無職であったり、フリーターをしている人がたくさんいる。健康上の理由でそうせざるを得ない人や、自ら進んでその生き方を選んだ(ように見える)人などさまざまだ。でも、日々その人たちの呟きを見ていると、やはり切実な生活の痛み苦しみがあるわけで。それを一部の人が「自由な生き方」「しがらみのない生き方」みたいな感じで過剰にファッション化していくのって実際どうなのかな、と思ったりもする。無職やフリーターがポジティブなものになることで救われる人もいるけれど、なんでも極端すぎるとこわい。

 自分の身近な友人に、最近離婚してなんとかパートタイムで働き始めた人がいる。(ブランクのある主婦がいきなり正社員は厳しいらしく、やっとありつけた雇用のようだった。)当初は「責任のない、いつでも辞められる働き方サイコ〜」と思って楽しくしていたらしく、それこそ無邪気な放埒さでツイートしたりしていたらしい。それでもフリーターでは生活はどうにもこうにも苦しいようで、SNSでの「無職やフリーターへのあこがれ」との温度差をひしひしと感じているとのこと。ふたりで、世界は無責任だね、という旨の話をした。世の中はいつだって生活を軽んじている。きちんと働くと生活する時間がなくて、時間を優先すれば生活ができない。袋小路だ、と思う。今の世界はなんでも二項対立化が加速していて、白か黒かみたいななんでも両極端な感じになっていると聞くけれど、働くことに関してもそうだなと思った。ほどほどに働きほどほどに暮らす、ということがとんでもなく難しい時代に生まれちまったな、とつらつら考えたりした。

 今日の昼食は冷蔵庫の在庫処分丼にした。物価高の秋に買った貴重な鮭を焼いて、古くなった卵を目玉焼きにして、あとは余ったウインナーを焼いて乗せた。うまいものにうまいものを乗せて食べるとうまいの法則。素朴なごはんは美味しい。失う前からすべてが失われているような、そんな感覚がする時代を生きているけれど、悲観していても時代がよくなるわけでもないし、私は生きていかなければならないのだった。可能な限りの知恵をしぼって、苦しい中でもたのしく生きていかなければならない。生活はつづく。考えすぎると鬱になりそうだから気を抜いて連休を溶かしたい。

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