日曜日。三連休の真ん中。いよいよ台風の影響で風が強まってきて、ベランダに置いてある鉢が倒れて土がこぼれるなどした。時折思い出したように強い横殴りの雨がたたきつける。洗濯物など到底干せたものではない。
愛知県は因果な土地で、過去には伊勢湾台風に東海豪雨いう記憶に残る災害がありつつ、毎年の台風ではわかりやすい災害はおこらない。電車やバスに遅れが出たり運休になったり、地下鉄東山線の構内が冠水したりはするけれど、仕事や学校は無くならない。ただただ生活が不便になるだけなのだ。
昨日スーパーで買った生落花生を塩ゆでする。生の落花生は旬のわずかな期間にだけ買うことができるから、この時を逃すまいと虎視眈々と野菜コーナーで狙っていたのだ。一部の地域ではこの料理を「地豆」というらしい。食塩水に生落花生を入れて、落し蓋をして30分くらいじっくりゆでる。火を止めて、塩味がしみるまですこし置く。完成。至極単純な料理だ。茹でたての落花生はホクホクで、塩味が素朴な甘さを引き立てる。これを一つずつ殻を割りながら食べる手間もまたいい。正午、同居人と並んで黙々と落花生を割り続けた。
こういう料理は食べるのに時間がかかるから、作るのは決まって休日だ。力任せに割ってしまうと、中身のやわらかい実が潰れてしまうから、割らないように力を加減して慎重におこなう。気の遠くなるほど時間のかかる食べ物を扱いながら、こんなゆっくり食事をするのはいつぶりだろうかと考える。最近の食事は、食事というより給餌だ。生きていくための餌を自らに与えている感じ。なるべく短時間で作り、短時間で食べる。全てが効率化の名のもとに収斂していく感じにすこし背筋が凍る。
最近の若い人の間では「コスパ」よりも「タイパ」重視だと聞いた。コスパがコスト・パフォーマンスなら、タイパはタイム・パフォーマンス。大学の講義の録画やYouTubeを倍速再生して、時間を極限まで圧縮する。本は読むと時間がかかるから、AIの読み上げ機能で聴きながら別のことを並行して行う。そんなことがだんだん普通になっているようだ。私が高校生のころから、予習に復習に宿題の消化にと「高校生は思った以上に忙しい」と思っていたが、たぶん日本で生活している人たちはみなそれぞれに何かに追われて忙しい。宿題や、仕事や、やるべきだと思わされている何かによって。その帰結として「タイパ」が叫ばれ、その反動として「ていねいな暮らし」がある。風が吹けば桶屋が儲かる的な、おおきな作用の流れを感じる。
私にとっては「休日」が「休息日」ではなくなり、もうずっと「休校日」あるいは「休業日」となっている気がする。平日にできないことの負債が、土日に押し寄せる。部屋をきれいにし、通院や買い出しをし、自炊し、勉強をし、次の一週間を過ごすために負債を最低限片付けているうちに休日が終わる。息をつく暇もない。テレビをぼんやりみることもなくなった。いつからこんな風になってしまったんだろうか。休日に思う存分休むなんて、そのための用意がないともう到底できない。本来は休むことこそが休日なのに。私はただただ休むがしたい。
そうと決まったら、私と同居人は温存しておいた株主優待券を握りしめ焼き肉へ向かった。ただただ手間のかかる食事を楽しみ、これでもかと栄養をむさぼり、泥のように眠る。今日はそれをする日にするのだ。眠ることにも体力がいるから、その前にはおいしいものをたらふく食べねばならない。優待券パワーでいつも以上にいい肉を、これ以上はもう腹が破裂するというくらいに食べた。通路を挟んで向かいの席では、おじさんとフィリピン人のお姉さん(同伴?)が働く前には肉を食わないとやってらんねえよな、と言っている。働くのはフィリピン人のお姉さんだけだろうに。でもまあその気持ちは分かる。
帰宅して、雨戸を閉めた。飛んでいきそうな植物たちは家の中に取り込んで、育成ライトで照らした。毎晩のルーティーンだ。そうこうしていると、とんでもない眠気がやってきて、自然だ、と思う。今日は朝から食べることしかしていないけれど、私も同居人も体は疲れ果てていて、平日の負債が溜まりに溜まっているようだった。足早に風呂に入りすぐさま眠った。