高等遊民前夜

日記と考え事・雑感のログ

春の名所へ

 土曜日。いつのまにか四月。すこぶる天気はいいが起床即くしゃみに苦しむ。私はスギ花粉は大丈夫なはずだが今年はダメだ。目が痛い。

 午前中はひたすら屋内の植物をベランダに出して水やりをした。

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 午後から山崎川へ散歩がてら歩いて行った。山崎川というのは、おそらく名古屋市民なら大抵の人は知っている桜の名所だ。川沿いをひたすら桜並木が続いている。屋台が並び、みんながレジャーシートで酒宴をしている感じのところではなく、ひたすら歩くのを楽しむ感じの場所。今日の名古屋上空は雲一つない快晴。天気も良かったこともあり花見客が多かった。

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 この時期の緑は鮮やかでとても良い。写真ではうまく伝わらないかもしれないが視界全体が春の暴力といった鮮やかな光景だった。

 実は名古屋に暮らしていながら山崎川の桜を見に来たことがなかった。名所が身近にあればあるほど、後回しになって行くことがなくなるのが地元あるあるだろう。遠目に見たことはあるが、実際に訪れてみて、有名になる理由がようやくわかった気がする。都心からそう遠くない場所でこれだけの景色が見られるのがとても不思議だった。

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 もう少し若い頃は、なんでも見ることさえ出来ればすべて一緒だった。それはつまり、写真や映像で見れば足りるということで、実物がそれらを超えることはないと本気で思っていたことがあるのだ。まあ当時は視覚が圧倒的に優位な人間として生きており、視覚以外の感覚をあまり大切にしてなかった。というより、見ただけで十分に経験したと思い上がれてしまったわけだが、いまはそこへ行き体感することに勝るものはないと思うようになった。風があり、眩しさや体感温度があり、匂いがあり、人の声と喧騒があり、そういったものの一体となった体験として花見へ来ると、もう何度見たか分からない山崎川の写真や映像よりも遥かに良いものだった。五感すべてが結びついた一体の記憶としての体験だ。そこを訪れることに勝るものはない。こうして歳をとっていくのだろうか。

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