高等遊民前夜

日記と考え事・雑感のログ

記事がバズって思ったことの二、三

 木曜日。天気が腹立たしさを覚えるくらいに良い。

 仕事中にやたらスマホが震えて、見るとはてなブログに書いた記事がやたら伸びていた。思わず通知を切る。
 思いがけずアクセスが伸びてしまい、はてなブックマークTwitter上で色々な方向から言及いただくことになった。共感とか、同じ苦しみを抱えた人からの嘆きとか、誠実なご意見ご批判、難癖に近い言葉、下ネタ、記事にオマケで書いたお菓子の話。想定しない読者へと届くことで思ってもみない解釈に晒されることの面白さと恐ろしさを味わいながら、自分の大学院時代を思い出していた。具体的には大学院で、色んな解釈に晒されたときにどう振る舞うべきかを訓練していた日々の記憶だ。せっかく回顧厨になっているので回顧ついでに書く。

 私は大学院時代、研究者を目指して近現代文学・文化を専攻していて、総括するとしんどかったが楽しかった。私の大学院での日々がどんな風だったかを前もって説明しておくと、その大半がひたすら演習発表と議論の繰り返しだった。
 自分が発表者の時は、その時のテーマに合わせて題材(具体的な文献など)を用意し、テーマに沿って解釈してレジュメを作成して問題提起をする。題材やテーマは教員に決められることもあるし、自由な場合もある。ジェンダーの視点から読んだり、戦争と絡めて読んだり、純粋に物語論として分析したり色々だ。聴き手(発表を聴き議論に参加する人)は発表者が選んだ題材を事前に読んでくる。30分〜1時間くらいの発表をした後、クラス全体で教員や発表者を含めて1時間でも2時間でも議論する。

 みんなで議論というと、「自分の主張で戦う」とか「論破する」みたいなものを想像する人も多いけど、実際はぜんぜんそんなことはなかった。議論する際はちゃんと流れが決まっていて、まず単純な前提知識の確認や発表者のレジュメにある単純な間違いを指摘するところから始まり、徐々に問題提起されている発表内容の深掘りをして、終盤にかけてクリティカルな議論になっていく。議論の参加者も、それまでの議論の流れを読み取り、どのタイミングで、どう意見を出せばより有意義な考察を深めることができるのかが問われる。議論が煮詰まってきたりあまりに脱線すると教員陣が輪に入って方向づけしてくれたりしながら話し合いは続く。議論はわかりやすい正解を出さないまま、終わっていくことも多かった。あくまで議論の時間は、それを通して参加者全体が新たな学びや発見をする有意義な時間に作り上げるためにある。考察のデュエルではない。そういう意味では、発表者は話題の提供者に過ぎず、みんなでより良い時間を作っていく共同作業だった。(自分の所属した研究室が恵まれていただけかもしれないが。)

 だがこれは理想的な議論の姿であって、もちろん、発表者や議論に参加する人の解釈が明らかに間違っていることもあるし、参加者が自分と正反対の価値観を持っていることもある。なかなか完璧な時間は訪れない。
 そういう場合に間違いを指摘したり、別の方向から意見をすることもある。けれど、その際にはあらゆる手続きや過程を経る。とても面倒で大切な手続きだ。決して相手の人格を否定をしないように細心の注意を払い、相手の提示した意見に一定の理解を示したり、提示したデータをまとめた意義を認めたりしつつ、きちんと間違いにも言及する。決して相手を攻撃しないように言葉遣いや言い回しを選び、あくまで間違いがあるという事実だけを指摘する。要するに結局気配りが大事という話になる。親しい間柄でもそうだし、初対面に近い人だと余計にそうだ。このような振る舞いをしなければ何かに違反する訳でもないが、相手を尊重して対話をするための最低限の礼儀だ。そうして議論を1時間も2時間もする。そこで行われていたのは論破でも戦いでもなくて、高度なコミュニケーションだった。研究者個人の能力云々ももちろん大事だけれど、あくまで議論や話し合いは共同作業であることが前提だったのだ。

 そういった議論では高度なコミュニケーションを求められるゆえに、とても疲弊するものだった。特に発表者は、その後の議論の参加者からあらゆる解釈にさらされ、それらを受け止め、有意義な形で応答しないといけない。負荷は相当なものになる。しかも、聴衆である議論の参加者が、みな良い意見や質問をするとも限らない。悪意なく単純に失敗してしまうこともあるし、外部の人がくる学会・イベント等では、意地悪な問い、難癖に近い発言や、曲解に基づく意義のない質問、論破しようという思惑にさらされることも多い。
 こういう時に進学したばかりで場慣れしていない人や真面目な人ほど、その一つ一つに真剣に答えようとして神経をすり減らしてしまう、という事態が起こる。大勢が参加する議論で、全員にとってなるべく有益な議論になるよう場を回すことはそもそもとても難しい。参加者の粒が揃うとか、前後の発表者の組合せとか、時の運にも左右される。その時はうまく行ったつもりでも、議論が終わった後に「無駄なことを言ってみんなの時間を奪ってしまった」「よく分からない質問をされてうまく対処できなかった」と落ち込むことも繰り返す。ひたすら反省して次の発表や議論に活かす。そんな泥臭い鍛錬の日々だった。
 その日々において、教員たちから繰り返し言われていたのは「議論に有意義ではない質問や難癖を見極めて、相手にしないということも大切」ということだった。全ての難癖やおかしな質問の相手を真面目にしていたら、こちらが消耗してしまう(実際に病んでしまう人は結構いた)。そういう相手は、そもそも「議論」をする気などなく、同じ土俵に立っていない。分かってもらおうと言葉を尽くせば尽くすほど、自分自身が病んでしまう。そういう相手に合わせて、わざわざ相手の土俵に行くことをすべきでない。自分の土俵へ来て話してくれる人と、自分の言葉で対話せよ、と言うことだった。

 今回ブログがバズって、いろんな解釈に晒されたとき、教員たちに言われた言葉を改めて思い出していた。一つの問題をめぐって大勢で議論をするというのが、そもそもが高度な対話でとても難しい。訓練をしていなければストレスは溜まるし、議論の行方をコントロールすることは難しい。とくにネットにおいては、この困難さを痛感せずにはいられないでいる。
 ブログを読んでくださった上でコメントをくださった人の言葉は、たとえそれが反論だとしてもすぐにわかるものだ。言葉を選んでいる人の言葉は思いの外伝わる。一方で、難癖に近い言葉、おそらく都合のいい部分だけ拾い読みした上での攻撃的な言葉も手に取るようにわかった。最低限の気遣いや礼儀などの手続きを経なかった言葉だ。もちろん、私にも言葉足らずな部分があったかもしれない。でも、いただいた反応のすべてに応答していたらこちらが潰れてしまう。その通りだった。
 結局私はアカデミアに残ることはなく学位だけ納めて就職したが、なんだかんだ大学院での日々がその後の人生に大きな影響を残している。あの過酷な訓練をくりかえしていた日々があるから、私は比較的平和にネットを楽しめていると感じた。仕事などの環境でこういう訓練を受けていたり、そもそものメンタルが強い人はネットでの議論に向いているだろうが、そうでない人にとってはネットは過酷だとも感じた。

 謎のバズりから少し時間がたって、もっとガチガチに理論武装して、想定する読者をある程度限定して、理解できる人だけが反応できるように書いたらよかったかな、と少し考える。そういう、あえて敷居を高くする訓練もたくさんしてきた。でも、その辺のOLが愚痴交じりに書いたような言葉として記したからこそ、いろんな人に読まれることになったような気がする。それが良いことなのか悪いことなのかは別として、そのおかげで苦しんでいる人にも届いたのならよしとしよう。私はむずかしい話ほど平易な言葉で書いていたい。こんなブログでも続けているといろんなことがあって刺激的だ。

 (それと同時に「議論に有意義ではない質問や難癖」でしかコミュニケーションを取れない人には、どうしたら救いがあるんだろうか、というのも少し考えた。悪意でそれをする人は別として、本当にそれしかできない人がいる。受け手としては、自衛のために受け流して相手にしないようにするしかないのかな。そうしていった果てに、誰にも相手にされなくなったその人たちはどうなるのか、どうすればいいのかと考えている。この問いは大学院在学中からみんなにとっての命題だったが、いい策はない。)

 

 真面目な話をしてしまったから、今日食べたアイスをシェアします。駄菓子的なチープな美味しさでした。

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