高等遊民前夜

日記と考え事・雑感のログ

「セルフケア」を持てはやすなよ

 月曜日。今日は仕事でとても煮え切らない、腹立たしいとも悲しいとも違う、形容しがたい虚無感を覚える出来事があった。言葉で表現することがはばかられるような出来事だ。婉曲的に、平たくいえば、多忙な働き方を強いられることで健康を損なう人がたくさん出たことの帰結のようなことが起こった。
 そこで最終的に共有されたのは、「みなさんも抱えこまないように気をつけましょう」という耳触りのいい忠告だった。

 ちょうど昨日から「セルフケア」の話を考えていたせいか、今日はいろいろな出来事にさらされて情緒がめちゃくちゃになり疲れた。
 セルフケア・セルフラブの定義はとても難しいので、とりあえずここでは日常的に使われている「自分の機嫌を自分でうまくとって、自分を大切にして、自己肯定感を上げてうまく生きましょう」程度のニュアンスで簡単に解釈しておきたい。そのうえで、それ自体の重要性はとても分かる。とても大切だとも思う。頑張った自分へのご褒美として高価な買い物をすることや、嫌なことがあった時に食事やアクティビティに課金して息抜きをすることは、私自身もよく実践する。自分のために時間やお金を使って自己を高めていくことは否定しない。世をうまく生きていく処世術であり、自分自身をフラットに保つ防衛策としても有用だから、日々を健やかに生きるために少なからず必要だと思っている。構成員がみなセルフケアできていれば心地よい社会になるだろう。モチベーションも上がる。いわゆるセルフケア全般に反対しているわけではない。

 私がなんだか嫌だな、と思っているのは、こういうセルフケアをできること=仕事ができる人、いい男・いい女の条件であるかのような言説が、急速に強くなっていること。(とりわけ女性については、美容や身だしなみを整えることといった美意識までもがセルフケアに取り込まれているところがグロテスクだ。このあたりの話は今回は触れないでおく。)そうして挙句の果てには「自分で自分の機嫌をとれない(セルフケアできない)人が悪い」という風潮になってしまうことを恐れている。
 つまり私の主張としては、セルフケアは自分が自発的にやってこそ有意義なものであるはずで、他者から過剰に押し付けられてやるようなものではないということだ。無意識にセルフケア的なことができる人にとっては「セルフケア?」としっくり来ないだろうが、人によって得手不得手がある問題だ。各自で出来たら望ましいけど、「やって当然」になるとつらいだろう。本来は誰かに言われてやったり、誰かに搾取されるものでもないはずだ。

 これについての違和感はずっとあって、自分自身の中でこの違和感が具現化したのは就活期間だった。どの御社で面接しても「お休みをどうやって過ごしますか」「息抜きやストレス解消法は何ですか」という質問をされる。要するに自分で自分をケアできますか?という問いだ。もっと露骨に「職場の人間関係で悩みがあって、上司に相談してもなかなか解決できなかったとき、どうやって気持ちを切り替えますか?」と聞かれたこともある。まるで、弊社ではそこまでのケアは期待できないので、自分自身で何とかできる人を採用したい、と言っているかのようだった。(当時は「セルフケア」なんて言葉はそこまで流通していなかったはずだ。いつからそんな言葉で呼ばれるようになったんだ。)

 話は逸れるが、思えば、ストレス社会という言葉は自分の記憶のかぎりでは小中学生の時からあって、そのうちに「ストレス耐性」とか「スルースキル」とかがちらほら聞かれるようになった。まるでストレスに圧しつぶされる人の方が「ストレス耐性」や「スルースキル」がないから悪いみたいな、個人の自助や能力に責任を押し付けるみたいな感じがして心底嫌悪していた。その延長にセルフケア・セルフラブはあると思う。
 仕事ができる人は、自分で自分の機嫌を取って、気持ちを切り替えられる人!ストレスをため込まないからストレス耐性もある!嫌なことは適度に受け流せるから、気持ちの余裕があって、アンガーマネジメントもできる!
 本当にくそくらえって思ってしまう。

 話を戻して、セルフケア・セルフラブの一件については、竹田ダニエルさんの一連のツイートがとても分かりやすく参考になった。

 特にこれはそうだなと思った。セルフケアが資本主義に取り込まれている。ケアとは、瞑想や自宅でのストレッチなど、お金がかからないものもあるが、基本的にお金がかかるものが多いし、そういうものがあらゆるところで喧伝されていると思う。お金がかからない範囲でセルフケアできる人はいいが、それでは対応しきれない過度のストレスや苦しみを抱える人は、セルフケアに課金していくことになるだろう。飲み会に行ったり、自分をいたわる系の商品を買ったり。人によっては眠剤心療内科のお世話になったり。過度に自己責任を推進するストレス社会はそのまま変わらずで、その中で不安定になる人がどんどん増えていき、セルフケアのためにお金を落とし、経済が回る。そんなエコシステムになっていくんじゃないかという危機感がある。
 私たちが自分で自分の機嫌を取ろうとするとき、そもそも社会(例えば職場)がするべき対処をしかるべき範囲でしてくれていたら要らなかったケアがたくさんあったはずで、なのに私たちはセルフケアをさせられている側面がある。ストレスやハラスメントがあってつらいけれど、職場はまともな対応して原因を取り除く行動をしないから、自分で気分転換するしかない。気持ちの問題だから。課金してでもそれをする。それが社会人として望ましいから。そんな雰囲気をあちこちに感じる。ストレスなどの問題が脱政治化して個人の問題にされている。なんでも個人のセルフケアに責任を押し付けることで、得をするのは誰なんだろうか。

 ところで、近年持てはやされている「アンガーマネジメント」という胡散臭い言葉にも同じことを思っている。アンガーマネジメント自体は否定しない。社会で働くうえで感情のコントロールは大事だ。確かにもともとの性格的に怒りやすい、感情的になりやすい人はいる。そういう人は感情をコントロールすべきだ。個人的な感情のゆらぎに他者を不当に巻き込まないためにとても大切なマネジメントだ。
 そんな「アンガーマネジメント」も最近、「セルフケア」と同じように自己責任の話に取り込まれているように思える。というのは、この社会で発生する怒りはすべて個人の性格や気質に起因するものとは到底思えないし、例えば職場の劣悪な環境のなかで理不尽な扱いをされ続け、余裕がなくなった故に感情的になることはよくある。それなのに何でも個人のコントロールの問題みたいされているような状況がある。アンガーマネジメントとセルフケアは本来別物として考えるべきだが、自己責任の名のもとに都合よく持ちだされている感じだ。怒りの根本原因を作った社会(例えば職場)に、「まあまあ、怒りを抑えて」と言われているような気分だ。

 セルフケアの問題は海外でも認識されるみたいだけど、とりわけ日本についていえば、そもそも広義のケア(育児、メンタルヘルス、介護など)が軽んじられている背景もあるし、自分で自分をケアできるのが有能な社会人云々〜と持てはやしたほうが、多方面に都合がいいんだろうなと、普段社会で生きていて感じている。自分をケアして当たり前、潰れたらセルフケア不足。反吐が出る。セルフケアやアンガーマネジメントだけじゃなく、ほかにも似たような言葉はたくさんあって、俗っぽい例でいえば「愛され力」とか「後輩力」とかもそうだ。私たちがうまくいかなかったときに「〇〇力がないあなたが悪い」と責任のすべてを個人に収斂させるような、やたら耳触りのいい言葉を信用して持てはやしてはいけないと思った。そして、それらができない、それらの力を持っていない自分を責めてはだめだ。それらを持てはやすときに、いったい誰にとって都合がいいのか、ちゃんと考えなきゃいけない。

 セルフケアの押し付けなんて書くから大層だけれど、実際、緩やかな押し付けは本当に普段からあると感じる。例えば業務過多で忙しく、疲れた顔をしていると上司から「ちゃんと寝ろよ」「ちゃんと食べろよ」と言われる。これだけならとても気配りのできる上司だし、部下に「最低限自分の生活を律しようね」と諭しているだけだ。でも、サービス出勤・残業地獄の過酷な職場環境のなか、悲鳴を上げて訴えても「ちゃんと寝ろよ」「ちゃんと食べろよ」と言われ続けることが、私の職場では起きている。そういうセルフケア的なことは、多くの人はすでに可能な限りしているはずだ。そして職場の惨状を上に訴えてもいる。そのうえで、ちゃんと寝食できるように調整するのが管理職の仕事のひとつなのに。
 もちろん、自分たちにまったく責任がないとは言わない。繰り返しになるが、セルフケアもアンガーマネジメントも、私は否定しない。自分の感情や内的揺らぎに他者を巻き込まないためにも必要な処世術だ。職場や上司がすべて悪いなんて思わない。もっと仕事を早く切り上げる工夫ができるかもしれないし、早く帰ればしっかり食事ができるかもしれない。自分たち自身が十分に仕事をできていない可能性だってある。全ての場合において、上司や職場が悪者ではない。万事において自分以外の他者を悪者にして自己責任から逃れたいわけでもない。
 でもセルフケアやアンガーマネジメントにも限度がある。個人では絶対にどうにもならない状況というものは確実にあって、それさえ個人の責任にされてしまうことが往々にしてある。そういうものには異議を唱える必要があるし、まずはそういう状況を少しずつ認識できるようにならないといけない。

 今日は仕事でとても煮え切らない、腹立たしいとも悲しいとも違う、形容しがたい虚無感を覚える出来事があった。言葉で表現することがはばかられるような出来事だ。婉曲的に、平たくいえば、多忙な働き方を強いられることで健康を損なう人がたくさん出たことの帰結のようなことが起こった。
 健康を損なった人たちは、セルフケアが足りなかったんだろうか。スルースキルがなかった?アンガーマネジメントが下手で、愛され力や後輩力がなかったんだろうか。究極的なセルフケアとして、逆に業務の責任を放棄して辞める決断が足りなかった?(みな仕事ができて、余裕がない中でぎりぎりまで長時間労働を担っていた人たちだった。)少なくとも職場で起こった件については、日ごろから問題視されていて、みんな改善を要求していて、それでも職場が対応しなかったゆえの結果だと思った。それもすべて、自己責任で対応できない人が自然淘汰されたということにして、全部個人のせいにすれば社会(例えば職場)はとっても楽なんだろうけど。

 

 まじめな話をしてしまったので、最後に今日食べたおいしいお菓子を貼ります。RAU さんのお菓子です。これは自分を慰めるためじゃなくて、単純に食べたくて買いました。おそらく。皮肉です。


 私などよりも大変有意義にこの問題に言及くださっている熊代先生の記事がありますので、シェアさせていただきます。とても勉強になります。


2月16日追記:
はてなブックマークでのコメントありがとうございました。
以下返信です。IDコール失礼します!)

>id:inujin さま
ありがとうございました。自発的なセルフケア・セルフラブはブックマークで他の方に言及いただいたようにクイア・アイ的に大切にしたいところ、社会から要請されることにはもやもやしています。(以前にもブクマいただいておりありがとうございました。その際は返信等できておらず申し訳ありません…!)

> id:p_shirokuma さま
ありがとうございます。すでに都合のよい資本財として管理されているような気がするこの頃です…。管理というより消費されているだけかもしれませんが…(ブログ記事、とても興味深く拝読し、共有させていただきました。)

>id:hatsan8 さま
ありがとうございます。主体的なセルフケアは大事ですしよくやるのですが、社会から押し付けられたり、例えば職場でつぶれてしまったときなどに「セルフケアが足りない!」等と責任転嫁される風潮は違うよな~と思う次第です…

> id:roirrawedoc さま
ありがとうございます。一緒にするなといいますか、例えば職場で長時間労働やハラスメントが横行して潰れる人がいる場合に、職場として何も対策をしてこなかったのに「セルフケアが足りない」等と個人のケアにすべて責任を押し付ける感じが嫌だな、と思います。もちろん、自発的なセルフケアは生きるために大切だとは思っています。

> id:tvxqqqq さま
ありがとうございます。記事では掘り下げませんでしたが、クィア・アイ的な、自身を高めるためのの主体的なセルフケアはとても大切だと思います。私自身も実践します。ただ、個人のものであったはずのセルフケアが社会に求められ、健康な労働力としてやって当然のものとして扱われ出した最近の感じについては「個人のセルフケアにタダ乗りしやがって」と思っています。

> id:narukami さま
ありがとうございます。実際、セルフケアは主体的に行えばとてもポジティブなものなので厄介だなと思っています。ストレスに弱い人にすべての責任があるように仕向け、ストレスを生み出す側(例えば職場など)が個人のセルフケアに依存する社会は生きづらいですね。

> id:tecepe さま
ありがとうございます。そうなんです、自発的なセルフケアだからこそ有意義なんですよね。

 コメントをたくさんもらってしまい、返しきれないのでこの辺で失礼します。ありがとうございました。全て読んでいます。色んな意見のある問題ですので、それぞれのご意見を読んで勉強させていただきました。
 思いがけず記事が広がってしまいましたが、普段は読者の少ないブログであり、雑多な思考をそのまま書く趣旨のブログです。纏まっていない部分もあるかと思いますが、ご容赦いただければと思います。