高等遊民前夜

日記と考え事・雑感のログ

藤井風を聴きに行ってきた

 日曜日。昨夜はポートメッセなごやで藤井風のライブでした。生来のくじ運の良さをいかんなく発揮し、人生何度目かの最前列だった。なぜか知らないが、私は昔からチケット運が割といい。でも前回のパナソニックスタジアムは遠かったから、急に近づいた感じ。当たっただけでも運がいいのだ。だから今回はかなりの強運を発揮したと思う。

 一緒に行った友人には私のチケット運の良さを信頼されており、今回もチケット確保を任されていた。だから感動のあまり泣かれてしまった。藤井風のライブ初めてだったらしい。私でも初ライブで最前だったら泣くかも。とにもかくにも、日頃の激務に耐えたことが報われたような心地がした。私は好きな音楽を応援するために今の職業を選択したような人間だから、ライブに行って応援できることが単純にうれしい。

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(撮影可の曲で撮った。近すぎて怖い)

 まだツアーが終わっていないからネタバレ的なことは書けないけれど、相変わらずデビュー数十年みたいな安定感と貫禄ですごかった。前のライブの際も似たようなことを書いたが、藤井風は歌唱力もピアノの腕も作曲能力もルックスもすべて持っている人で、他者である私にとってはもはや嫉妬の対象にすらならないような、どこか人間離れしたものを感じる存在だ。あまりに全てを持っているものだから、まるで現実味を感じないというか。だから同じ時代に生きていて、活動を追えることをシンプルにうれしく思う。これは他のミュージシャンに対しても抱く感情だけれど。

 今回の公演ではずっとスクリーンにステージの映像が映し出されていて、特に際立っていたのが手元のアップだった。執拗なまでにピアノを弾く指の映像が多かったように思う。ピアノを弾くための手だ、と思った。ピアニストの手。指が長くまっすぐで、手が大きい。そんなものまで携えて、その手の持ち主にふさわしくピアノが上手くて、もはや意味がわかなかった。全てが出来すぎている。白い服にひかりが反射して、いちいち神々しかった。
 嫉妬する隙がないくらいの人物だけど、抜けているところがたくさんあるからバランスが取れているのかもしれない。今回の公演は会場中央にステージがあって全方位にお客さんがいる形だった。ポジション移動が多いし覚えることが多いのか、歌詞が飛んだりマイクをどこに置いたか忘れていたり、歌唱中にバンドメンバーのそばに置いてあるセットリストを見たりしていて微笑ましかった。細かいところが見えるのも最前ならではなのかもしれない。貴重の時間だったと思う。

 一緒に行った友人も楽しんでくれたようだった。昨日一緒だった友人は無類の音楽好きで、学生時代から一緒にいろんなライブに通った。友人は私と違い、対象を熱狂的に推す人だ。全力で対象を推し、可能な限り活動を追いかけ、ライブの思い出を生き甲斐や心の支えにして生きていくような人だ。何度も何度も、今日の思い出だけで生きていける、と口にしていた。
 私は音楽が好きで目いっぱい応援している人がたくさんいるけれど、たぶん本当の意味で心底熱狂することはない。私にとっての推しは、究極の趣味であり息抜きであり、ささやかな一つの楽しみに過ぎない。私はライブを楽しみに仕事に励んでいたけど、生き甲斐かというとちょっと違う。昨日はとても楽しかったし感動したし、この先何度も思い出すだろうけれど、それが心の支えになることは多分ない。私の人生は私のものでしかなく、別次元で辛いことは辛い。私はそういう類の人間で、誰かを心の拠り所にして支えてもらうことができない。ひとりで生きていくことに強さを見出している人間なのだ。良くいえば理性的、悪くいえば冷淡なのかもしれない。

 だから、ライブの記憶を大切な思い出にして、それを素直に心の拠り所にして辛いことを乗り越えていける友人のことを、これも一つの強さなのだと感じた。誰かを支えにして生きていくことの強さというか、そういったものを感じた。ちょっとうらやましかった。



 

 ここからは余談なんだけど、最近、藤井風の信仰の話題が週刊誌に取り沙汰されたみたいで、私も日常の中でその話題についての質問を向けられることが増えた。この話題を避けるのは不自然だから、私の考えていることをここに残しておこうと思う。このブログは私の思考のログでもあるので…。
 正直自分もあまり整理しきれていないから、自分自身が思考を整理するためでもある。難しい、めんどくさい話題だよねって先送りして黙殺していたらきっとめちゃくちゃ楽なんだけど、そうしていても何も良くならないので。そういう話を読みたくないよって人は、この先は読まずに戻っていただけたらと思います。



前提として、私の立場

 私個人は誰が何を信仰していたっていいと考えている。信仰は自由だ。仮に疑惑の多い信仰対象だったとしても、直ちにその信者の人格と結びつけることもしない。(例の信仰の在り方を「宗教」と呼ぶのかは正直微妙だが、ここではわかりやすく「宗教」と呼ぶことにする。)
 ただし、その宗教がキリスト教のような一般化された有名なものではなく、いわゆるカルト的なものであり、特にその信仰を象徴するスローガンが説明なしにグッズに使われ展開されていることは、信仰の教義を広めることになりかねず、アーティスト側の意図の有無に関わらず、その点においては批判は免れないと感じている。ただ、人によって考え方は異なる難しい問題であるとも思うし、異なっていいと思う。

信仰の話に驚かないのか

 個人的感想として、私は逆に、この件が今更話題になることにまず驚いていた。というのは、ファンの間ではずっと噂されていたことであり、ぶっちゃけ気づいている人も多かったと思うのだ。自己を律した生活スタイルやあまりにピュアすぎる日ごろの言動、独特の死生感やこの時代には珍しいほどの厭世的姿勢からして、強い思想は感じられていた。それらは隠されてはいなかったし、無名時代のYouTube動画にはその信仰のアイコン的な人物の写真がふつうに映り込んでいる。同時に、マネージャーのブログからもその辺りの葛藤は書かれていた。(確か、このまま世に出ても誤解されてしまうのでは、みたいな恐れが記載されていたような記憶がある。)
 私は信仰の気配を感じたうえで聴いていたから、今回の週刊誌の騒ぎで幻滅したりすることはない。アルバムのタイトルやグッズなんかも、そういうものとして受け取っていた。だから宗教のスローガンが記載されたグッズは、応援のために購入しても日常使用はしていない。この件を知っていたファンは大体こんな感じで、どこかでうまく折り合いをつけて応援していたんだろうと勝手に思っている。
 ただこれは、信仰の気配に気づいていたからこそ出来たふるまいだ。それに、自分が推していた人が何かに偏った人であることもしばしばあったから、こういうことに慣れているのもある。それを踏まえたら、信仰のことに思い至らず驚いた人の中には幻滅してしまう人がいるのも無理はないよなって思う。同時に、これだけ話題になって拒絶反応みたいなものを催す人がいるのは、急速に知名度が高まって新規のファンが増えたことの証左だろうなと感じている。これまでのようにコアな音楽ファンが推している状況ではない。ライトなリスナーを取り込み急速に知名度が上がっていくなかで、今回のような事態になってしまったのだと感じている。(ライトなファンが悪いわけではない。ファンが増えるのは喜ばしいことだ。)

信仰を知ってから聴かないという人をどう思うか

 やはり日本においては、「宗教」というだけでアレルギーのように拒絶反応をする人が多くいて、過剰反応的なものもあると感じる。私個人は、大多数が宗教に無関心なこの国においても特定の宗教に信心深い人は少なからずいて、珍しいことではないから、どちらかというと信仰を持った人が音楽家になった、くらいに捉えている。身近にも、後になって分かっただけでいろんなカルト信者がいたしね。意外にそういうものを信仰している人は周囲にあふれている。
 ただ日本には無宗教(と言うより宗教的無関心)の人が多く、そもそも宗教や信仰の話がタブー視されている側面もあるから、拒絶反応はある意味仕方ないかとも思う。聴けなくなる人がいるなら仕方のない。感情の問題だから、無理して聴く必要はない。でもこのままだと、今後も同じような事例は起きるから、宗教的な話題がタブー視された状況を変えないとダメだと思う。少なくとも、こういう話題を「ヤバいネタ」として扱わないような世の中に変わっていってほしい。ちゃんと話し合える空気感が醸成されていない。

 ただし、やはり信仰を代表するスローガンが事前説明なしにグッズとかに使われている件、いわゆるステルス布教の件については、拒絶反応も妥当だし批判に晒されるべきだと考えているから、至極致し方ないと思っている。アーティスト個人の信仰の問題と、この問題は分けて考えなければならない。

藤井風の歌詞や言葉のオリジナリティ問題

 厳密な意味でのオリジナルという概念は存在せず、みな既存のものに影響を避けられないものと考えている。真に未知なものは、理論上まったく知らないことゆえに認識できないはずだ。創作物は何かしらの影響を受ける。そのこと自体には問題は感じていない。
 アーティスト独自の言葉が聴きたかった、という想いはもっともだけど、その独自という概念そのものが幻想にすぎない。自分が信仰するものに影響を受けて価値観が変わり、その他の影響と組み合わさって自分の思考が深化され、それが音楽に反映されるのもよくある話だ。今回はそれがカルト的なものだから話が余計にややこしくなっていると感じる。作品そのものがそのまま信仰の再生産ではない。

グッズ等のスローガン使用がそんなに問題なのか

 今回問題になっているのは、件の宗教の象徴的スローガンがそのままアルバムタイトルやグッズの印字に事前説明なく使用されていることだ。特にグッズは、アーティスト名が書かれていないことが多い。ゆえにファングッズっぽくなく日常使用しやすいわけだ。 

 ところが件の宗教側も、同様の象徴的スローガンを用いたグッズを展開している(※宗教側がグッズ展開したのが後であり、藤井風の人気にあやかった形だ)。そして一部の藤井風ファンがそれらの宗教グッズを準公式グッズとして購入している現状があるようだ。つまり藤井風が出しているグッズも宗教側のグッズも、大多数からは見分けがつかないのだ。
 もちろん、その印字が宗教のスローガンであることを知りながらそれでも購入する場合、購入は当人の自由だから問題にならない。問題は、それが宗教グッズであることを知らずに購入し、日常使用して人目に触れさせてしまう場合だ。宗教側からしてみれば、わたしたちがスローガンが書かれたグッズを持って生活してくれれば、長い目で見て布教に繋がり万々歳だ。知らず知らずのうちに、布教のようなものにファンが加担してしまう形となる。それが都合の悪いことに、宗教グッズを買った場合にも、藤井風のグッズを買った場合にも同じように機能する。これは仮に藤井風にそんな意図がなくとも(あの感じだとその意図はないと思っている)、グッズを買ったファンがそのつもりがなくともだ。

 ただグッズにちょっとした言葉が使われたくらいで…と思う人も多いだろうけど、この感じがまさしくカルトだと思っている。日本の某カルト宗教が全国の大学で善良にみえる学生サークルを運営して、学生のなかから少しずつ信者になり得る人を集めているのと構図的には変わらない。本当に身近で些細なところから徐々に取り込んでいくのだ。

 また、ファンの中にもいろんな宗教の信者があり、その人の中には他の宗派の教義に触れてはいけない人たちもいる。その人たちの信仰の自由を侵害する可能性があるという指摘もある。その辺り、グッズ展開には配慮が必要だったのでは、と思ってしまう。

ファン全員が信仰とミュージシャンとを峻別して捉えられない

 ファン全員が信仰やグッズへのスローガン使用の問題と、ミュージシャンをある程度分けて受容することができたらいいんだろうが、現実問題として残念ながらそうではない。藤井風は自身の生活スタイルをファンにおすすめすることはないが、影響されて自身もベジタリアンになったり、瞑想を始めたりするファンをたくさん見た。それ自体は問題はないと思う。
 問題は、今回の一件が騒がれ炎上した際、宗教のことや藤井風本人、ひいてはそれらに影響を受ける自分自身を否定されていると感じ、藤井風だけでなく宗教を擁護する人が少なからずいたことだ。宗教を擁護することは、それを信仰するミュージシャンやその作品を擁護することであり、延いてはそれらを支持する自分を擁護することになるのだろう。今回の件の批判の多くは「宗教的スローガンを説明なくグッズに使用していること」がメインであり、(一部にそういう人はいるものの)ミュージシャンの信仰を批判することが主旨ではないはずだが、そう捉えることができず、過剰反応してしまう。
 宗教と自分を同一化し、宗教の批判を自己への批判と捉え、宗教を擁護する構図はカルト宗教によく見られるやり方だ。この図式自体がとてもカルトで、それが藤井風という有名人を通して起こってしまっていることが問題だと思う。ミュージシャン本人の意思に関わらず、構造的にそういう広告塔のような機能になってしまっている。

 あと余談ですが、ファンが「お布施してきた」「聖人だった」などと言って宗教っぽい言動をしているのが、風の信仰の影響じゃないかみたいな言説があるけど、これについては大目に見てやってくれ…と思っている。もともとファン文化には宗教用語で例えるレトリックみたいなものがある。言葉のあやだ。ファン文化はそもそもが宗教に構図が似ている界隈だ。今回の件と直ちに結び付けられては困ってしまう。

キリスト教や仏教のワードはなぜ許されるのか

 線引きは難しいが、やはりカルトかどうかの差が大きいと思っている。仮に藤井風が「隣人愛」みたいなというタイトルのアルバムを出したとして、たぶん大きな問題にはならない(扱い方がマズければもちろん問題にはなるだろうが、その話は置いておく)。この場合、明らかにキリスト教モチーフだと分かるし、検索しても容易にヒットする。キリスト教は多くの人が知っている一般化された大衆的な宗教だからだ。宗教だからと言って、大衆的な宗派とカルトを同程度のものとして扱うのは、やはり無理がある気がする。

 一方で、もしかすると藤井風にとっては、幼い頃からずっと当たり前にあった言葉で、例えば日本語のことわざや格言のように当然のものとして、一切の疑念なく親しんでいたスローガンなのかもしれない。(例えばファーストアルバムのタイトルは、父から言い聞かされてきた言葉だと語っていた。)本人が普段から信仰を仄めかすようなことをためらいなく話していることからも、その可能性が高いんだろうと思う。この辺りは二世信者の問題でもあるから、幼い頃から信仰が当たり前だった本人が自覚するのはとても難しい場合がある。だからこそ周りの大人がうまく立ち回れなかったのか、という思いも正直少しある。

藤井風が最初から信仰を明言していればよかったのか

 この辺りがいちばん難しいなと個人的には思っている。藤井風の方にも信仰の自由があり、信仰の仕方を選択できるからだ。いろんな宗教がある状況で、全員の信仰の自由を侵害しないなんていうのは現実として困難であり、理想でしかない。どうやらこの宗教には「営利活動をする際に信仰対象の人物名を使用してはいけない」との教えがある、みたいな話を聞いた。真偽は不明だけど仮にそれが本当であれば、藤井風が信心深ければなおさら、ミュージシャンとして活動する上でカミングアウトはできない。教義に反するからだ。(これがもし本当だとすれば、とても巧妙な教えだと感じる。)
 また、「宗教」というだけで拒絶反応の強いこの国で、あらかじめ明言していくことのハードルは高い。「宗教はちょっと気になるけど置いておいて、とりあえず一通り楽曲は聴いてみるか」なんて冷静な視点を持ったリスナーばかりじゃない。先述のマネージャーのブログに書かれていた葛藤もこれに通ずると思う。日本でこれから活動をしていくにあたって、この問題をどう扱うか、世界を見据えて活動している藤井風サイドがまったく考えていないわけはないはずだ。

 そのような状態にあって、最初から信仰を明言しておくべきだった、と外野から安易に言うことはできない。いろんな可能性やリスクを考慮した上で、批判もすべて覚悟で、あえて信仰を明言せずに活動していくことを公式側が決めたのであれば、それはそれで良いかと思う。ただ、実際に批判にさらされた今、「必要なかったから公表しなかった」というのは言葉足らずというか、説明を尽くすとか、説明できないならできないなりの言葉があってもよかったのかな、とは思う。
 日本だけだったら時が経てば忘れられるだろうけど、海外は宗教的問題にはよりセンシティブだから、これから海外に向けて活動しづらくなってしまうと思う。個人の信仰は自由だ。だから自由なはずの信仰のことで、音楽がやりづらくなってしまうのは、応援している一ファンとして悲しい。