宇佐見りん「くるまの娘」を読みました。
デビュー作の「かか」を読んだときに、強烈な母娘の物語だったから、そういった逃れられない血縁の呪縛というか、理屈で割り切れない関係に関心があるのだろうと思っていたけれど、今回の作品はそれがわかりやすく出ていたと思う。ある一家を、高校生である娘を中心に捉えた物語で、この一家は共依存にも思われる相互依存の関係に成り立っている。不登校気味の娘の「かんこ」、普段は穏やかでも一旦火がつくと暴力を振るう父親、病気の後遺症とアルコール依存により錯乱する母親。兄も弟も家から出て、かんこだけが家族に取り残されている。一見ヤングケアラーの問題提起にも思えるが、この小説はそういった問題を超えて大きな家族の地獄を扱っていて圧巻だった。
かんこの両親は分かりやすく酷い人物たちで、部外者として見ると「そこから逃げて仕舞えばいいのに」と思ってしまう。でも家族の問題はそう単純なものではなかった。娘であるかん子には父にも母にもそれぞれ慣れ親しんだ輝かしい記憶がある。暴力を振るう両親たちを「助けを求める傷ついた人たち」であるとさえ捉えている。両親への憎しみに似た感情を持ちながら、親であるゆえに逃れることができない。割り切れないのだ。物語は祖母の葬儀に参列するために車で一家総出で向かうところで動き出す。かんこたちは対立しあい、もつれあい、苦しみ、よりそいながらもがいていく。
もし外部の力が働いたとしても、自分はこの家から保護されたいわけではないということだった。(中略)ひとりで抜け出し、被害者のようにふるまうのは違った。みんな傷ついているのだ、とかんこは言いたかった。みんな傷ついて、どうしようもないのだ。助けるなら全員を救ってくれ、丸ごと、救ってくれ。(『くるまの娘』82-83頁)
両親に暴力をふるわれながら、かんこは外部の大きな力により自分だけが救われることを否定している。娘だけでも逃げて仕舞えばいい、社会的なという正しさが通用しない痛切な個の物語は、私自身のできることはなにもないのだと突きつけられているようで恐ろしかった。もしこの家族が隣人であったとして、この家族を丸ごと救うには、周囲の人は、社会は、どうできるのか。普通に家族のように振る舞っていて、実は今にも壊れそうな家庭というのは個の国の至る所にあって。おそらく部外者の自分には何もできないという事実が恐ろしい。社会に取りこぼされる苦しみを高解像度で見せられているようだった。
この作者の作品をこれまで読んでいて、いつも素晴らしいと感じたのは結末へ向かうところのスピード感だ。終盤までなんでもないように淡々と続いていた地獄のストーリーが、最後に一気に加速していく。今回も終盤のジェットコースターに乗って振り回されているかのような読後感は凄まじかった。ページをめくっているのは私なのに、先にページがめくられていくような感覚。ぜひ最後まで読んでほしい。
終盤では、父親にも血縁による、理屈で割り切れない、逃れられない呪いのような記憶があることが示唆されている。血の因縁なんてまやかしで、大事なのは自分がいかに生きるかであるといわれるけれど、現実としては血縁というのは自己に深く根ざしていて、理攻めで太刀打ちできるようなものじゃないと改めて思う。この小説は、家族の呪縛に全く興味ない人にとっては退屈かもしれないけれど、家族に苦しんだことがある人にとってはお守りになる話じゃないかなと思った。すばらしかったです。